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「第28回山崎勲杯争奪戦」高知競輪FⅠ

高知F1

「第28回山崎勲杯争奪戦」高知競輪FⅠ場外発売です。

高知競輪場(りょうまスタジアム)は、周長500mで4コーナーからの直線が52m、500バンクの中では直線が短い円形のバンクです。

1着の決まり手が、逃げ(16%)・捲り(33%)・差し(51%)
2着の決まり手が、逃げ(15%)・捲り(15%)・差し(32%)・マーク(38%)

りょうまスタジアムのバンクは、旧高知競輪場のバンクのデーターを基に設計され平成11年10月に完成し、バンク内に 設置された陸上の400メートル走路の色も鮮やかで明るいイメージのバンクに生れ変わりました。バンクの特徴としては、1周500メートル、最大カント24度29分51秒走路巾ホーム直線で11.3メートル、バックで10.8メートルで直線部が15.06メート ルしかなく全体に丸いイメージのバンクです。
決まり手としては、旧バンクでは捲り追込みが多かったのですが周囲を施設に囲まれ風が舞うようになったのが原因なのか、500バンクにしては先行選手が逃げ残るバンクになったようです。

~山崎勲(ウィキペディア参考)~
高知県立新制高知高等学校の定時制に在学中、自転車屋に住み込みで働いていたが、1950年に高知競輪場が開設されたことを聞き、同年7月25日に選手として登録。当初は短期間に生活費と将来の学費を稼ぐ目的であったが、1952年に当時の最高位であるA級1班に昇格し、1953年には当時の大阪中央競輪場で開催された第8回全国争覇競輪(現在の日本選手権競輪)決勝で2着に逃げ粘るなど、捲りや先行の戦法を主体として一線級の実力を発揮したことから、その後も選手として活躍し続けた。

選手としてのピークを過ぎた直後、次男の病気がきっかけで福祉活動の必要性を実感したことから、自ら福祉施設の建設と運営に乗り出すことを決め、それからは自分の賞金を福祉活動の資金とするために走り続け、1986年4月29日の高松競輪B級一般戦8着をもって引退するまで、36年間もの競輪選手としての通算で3195戦674勝を挙げる立派な成績を残した。同年5月7日に選手登録消除。